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管理者の自己紹介

基本情報

 

【2024年現在】:35歳
夫:歯科医師 43歳
娘:4歳
ペット 白猫♀➕黒猫♀➕ミニチュアダックス♂

 

<歯科クリニック経営実績>
結婚当初夫のクリニックは開業6年目
開業当時借入6000万→当時残積4500万
当時:歯科衛生士1名・歯科助手3名・受付1名・勤務医2名
クリニック年商約8000万〜1億の間
保険7-8割 自費2-3割
リコール率→3割と壊滅的
夫年収2000万

そこから5年で
当時あった残積は結婚して4年目で繰り上げ一括返済。
その間にテナントを移転→移転費用2000万はキャッシュで支払いし、新たな借入は無し。
現在:歯科衛生士1名 受付兼歯科助手2名
保険5-6割 自費4-5割
リコール率8-9割

<Webマーケティング事業実績>
【クリニック専用LINE公式アカウント作成と作り込み・運用コンサル 2023年6月よりフリーランスで開始】
6ヶ月で歯科・医科クリニック 口コミのみで合計30アカウント

【クリニックWebマーケティング(Instagram・LINE・Web)総合コンサル 2023年11月よりふりーらんすで開始】
6ヶ月で5院契約

もっと濃い自己紹介を見たい方は続けて下記🔽をご覧ください✏️

幼少期〜中学生時代:勉強のできない自分との戦い

神奈川県の相模原市で産まれ

いつも優しくてカッコよかった高校の体育教師の父と

いつも明るくて前向きな元幼稚園教諭の母

4歳上の真面目な姉

そしてとにかく活発で男の子と毎日泥だらけになりながら外で遊びまわる私

幼少期はとにかく「危ないからダメ!」という母の言葉を完全に無視し

高い木に登ったり、高い塀を登ったり

決して大人しい子供ではありませんでした。

小学生時代は、毎日ドッジボールや鬼ごっこをクラスの男の子に混じってやり

勉強は中の下(いや、下の中?)

唯一ずば抜けていたのは『体育』

運動神経だけは良く、『体育と言えば〇〇』と言われる子

走るのは小学校6年間女子の中ではずっと1番でした。

成績が良いのは体育だけ。

『勉強』なんてちゃんとした記憶が無いくらい、学校での休み時間や放課後はとにかく外でずーっと遊んでいた

そんな女の子でした。

中学校は普通の学区の公立中学校へ行き、部活はバスケットボール部

毎日毎日バスケットボールに打ち込み、体育が好きだった私はとにかく楽しかったのを覚えています。

そんな私が初めてぶち当たった壁はこの中学生の時でした

中学2年生になった時、それまであまりみんなが気にしていなかった「進路」という言葉が出てきたのです。

当時の私の成績はほぼオール3。そして体育は5。しかも絶対評価だったので、テストの点でとった「3」ではなく、授業態度や積極性も含まれての「3」

「進路」というワードが出てきた時初めて「高校は学力レベルによって選べる場所が違う」ということを知りました。

小学校時代、ほぼ勉強というものをせず「遊ぶこと」に全振りしていた私

そして、親からも「○○は勉強はちょっとね、、、でも運動は良くできるね!」と言われていて

「自分は勉強はできない」と思っていました。

そして【看護師になりたい】という夢を持ったのもこの中学2年生の時でした。

きっかけは「盲腸での手術入院」

忘れもしない中学2年生の冬

とてつもない腹痛に襲われ、近所のクリニックを受診したけど原因がわからず

数日経ち、どんどん痛みが増して良くなる気配ゼロ

あまりにも痛がる私を総合病院に連れて行った母

その場で緊急手術となり、その日は12月24日クリスマスイブでした。

そしてその時の小児科病棟にいて担当してくれた看護師さんが父の高校の教え子だったのです。

初めての入院と手術で怖かった私に、その看護師さんは私の不安を取り除くため寄り添ってくれました。

【入院したことがきっかけで看護師を目指す】

超絶ベタなシュチュエーションですが、こうして私は初めて「看護師になりたい」という思いを抱いたのです。

ですが、当時の私は「看護師さんは勉強ができないとなれない(頭が良くないとなれない)」と思っており、

自分は勉強できないしバカだからなれない

そう思っていました。

そんな私の考えを変え、実際に看護師になるためのルートに導いてくれたのは

当時通い始めた塾の先生でした。

その先生は、私に「勉強ができない訳じゃないよ、やり方を今まで知らなかっただけ」と言ってくれました。

そこから私は初めて自ら「勉強をする」ということを始めたのです。

そして目標を立てました

【看護師になる】と。

そこで、まず入りたい大学を決めたのです。高校ではなく、大学を。

その大学の看護学部へ入るには一般入試と内部進学の方法があることを調べました。

なぜこの大学に進学したかったのかというと(今となれば別にこの大学にこだわる必要は全くない)、「4つ上の姉がその大学に入学することが決まったから」でした。

看護師なんて全く興味の無かった姉が、なぜか急に進路変更し看護師の道へ進んだのです。

姉は幼少期から勉強が良くでき、塾なんて行かなくても学区トップの高校に受かるような人でした。

弁護士になりたいと言っていた姉が、急に看護師になると言い出して受験をしたのです。

そして一般入試で合格。

ただただ、先に夢を叶えられるのが悔しかったのです。

そして、ずっと「勉強のできない妹」だった私は、姉が入った大学に入学して自分も同じ看護師になることで親や姉を見返したかったのかもしれません。

なので、その大学に入る方法を考えました。

一般入試の基準は高く、勉強や試験が苦手だった私は「内部進学」に目を付けました。

そしてその内部進学の切符を得られる附属の高校に行こうと決めました。

その高校に推薦で入るために必要な内申点を確認し、その内申点がクリアできるように定期試験で取らないといけない点数を塾の先生に提示してもらいました。

そこから毎日のように塾へ行き、今までやってこなかった勉強の基礎から先生と始めたのです。

そうしたら、テストの点が取れるようになり目標としていた内申点をクリアし、無事に希望していた高校へ入学することができました。

こうして一番最初の人生の壁を、その時出会った塾の先生のおかげで乗り越えることができました。

高校生〜大学生:看護師になりたい思いで過ごした青春

青春の高校時代

無事に希望していた高校へ入学し、青春へ突入

中学からやっていたバスケットボール部へ入部しました。

その高校は部活が盛んな高校で、甲子園にも何度も出場するような「スポーツ」が盛んな高校でした。

中学の時とは違い、部活の比重がとても重く帰ってきたらヘトヘトで部活以外の何もできないというような感じでした。

6ヶ月ほどそんな生活を続けたとき、ふと「看護学部へいくための内部進学は基準ってどうなんだろう」と思い、当時の担任の先生に相談しました。

すると、「3年の春にある学内統一テストで(この高校は全国に何校もある超マンモス校で何万人も生徒がいた)3桁番内に入れば確実」というデータを聞きました。

あかん。。。。。

このまま部活だけしていたら、勉強する時間が全くない

そう思い、親に頼み込んで部活が終わった後に個別指導の塾へ通い始めました。

そんな生活を半年ほど送りましたが、周りの部活の仲間は部活に全振りしており、部活が終わった後に塾へ急いで行く私を、「なんでそこまでするの」くらいに思っていたと思います。

この環境にずっといたら、もしかしたら順位を取れないかもしれないと思った私は

このまま本気でやらずに順位が取れず看護学部へ進学できなかったら

きっと一生後悔すると思い、部活を辞める選択をしました。

当時学年主任の先生が部活の顧問の先生でした。退部を伝えに行き、上記の理由を説明すると、返ってきた言葉は

『そう言って辞めたやつに、本当にその目標をまともに達成できた奴はいない。』

でした。

いや、まぁわかる。でも、言わないでほしかった。

先生が発したその言葉は今でも忘れません。

そしてその言葉のおかげで、絶対に看護学部へ行くという思いが強くなりました。

その後は部活を辞め、学校と塾でその統一テストのために全振りし

無事に順位をとることができて、看護学部への進学が決まりました。

そして、当時の彼が出ている甲子園の応援に行ったりと高校時代の青春もしっかりと謳歌して大学へ進学しました。

夢と希望に満ち溢れた大学時代

中学時代から抱いていた進学したかった大学へ入学し、もうウッキウキで進学。

大きな大学のキャンパスで大学生活を送ることに心躍らせながら入学し、

サークルとか何入ろっかなー🎵って考えてた私。

現実は課題の山とメンタル崩壊(言い過ぎ)の病院実習でサークルどころではなく

気がついたら、国試を受けていました。(だいぶ飛んだ)

そしてこの大学生時代にやった【看護過程】という看護師の大元が今の歯科でも活きることとなるのです。

看護師さんのイメージって【採血・点滴・患者さんの身の回りのお世話・ドクターの介助】みたいなイメージありませんか?

私はそんなイメージを持っていました。

でもこれは、大きく違っていて大学で学ぶほとんどが【看護過程】というものでした。

もちろん入院患者さんの身の回りのお世話の演習や、採血の演習もしました。

でも、看護とは(ここでいう看護とは病棟看護のこと)ざっくり言うと

【患者さんの問題点を全体的にアセスメントし、その患者さんに看護師として必要な介入を炙り出す。そしてそれを実践し、患者さんの問題点がどう改善したかを評価する】

これをどのように炙り出すかと言うと、【関連図】というものを書きます。

患者さんを中心にし、病態面、心理面、活動面、それぞれ関連を全て書き出し、介入しないといけない問題を書き出します。

そしてその問題点に対し、看護師としてどう介入をするかを書き出します。

観察項目・実施項目・指導項目のように分けて全てを書き出すのです。

そしてそれに対しどのような結果が得られたか、自分の介入の結果どのような効果が見られたかを再度アセスメントする

ということをとにかくいろんな領域の患者さんでやるのです。

何言っているか良くわからないと思いますが、看護師の基本はここにあります。

【患者さんに看護師という立場でどのような介入が必要で、どの様な結果をもたらす必要があるのか】

これをひたすら訓練するのが看護大学で行ったことでした。

大切なのは【看護師の立場としてどう介入しないといけないのか】を瞬時に判断するということ

この【看護過程】がどの様に今の歯科での診療に活きているのかはまた別の記事で記載します。

そしてほぼまるまる1年間大学病院や、総合病院で病棟実習をして

国家試験に無事合格して正看護師免許を取得することができました。

ずっと夢に見ていた看護師の資格をとり、希望に満ち溢れた私は就職先の大学病院で現実にぶち当たるのでした。。。。

大学病院時代

二度と戻りたくない1年目

念願だった看護師になり、心弾ませながら白衣に袖を通し、就職したのは地域の中核の大学病院

配属希望先は「血液内科病棟」

終末期看護をしたかった私は「がん治療」を行う病棟を希望しました。

血液内科は、白血病や悪性リンパ腫など血液のがんを治療する病棟だったのでほぼ100%の割合で抗がん剤治療を行う患者さんばかりでした。

看護師1年目、想像していた看護師の仕事とかけ離れた現実を目の当たりにして

何もできない自分と、怖い先輩と、できないことの悔しさと、責任の重さと

色々な感情が毎日入れ替わり、毎日看護師になったことを後悔し

その度にまだできると自分に言い聞かせなんとか1日1日を乗り越えていました。

「お前みたいな若い看護師じゃ話にならないからもっとちゃんとした人を呼んでこい!」

「あなたみたいな新人さんが担当で大丈夫なの?」

患者さんから言われた言葉

今ならわかる。患者さんも治療を受けるのにこんな若い何もわかってなさそうな看護師に受け持ちをされたら不安だったよなぁと。

でも当時の私は普通に凹み、病棟のトイレで何度も何度も悔し涙を流しました(今じゃ想像できない笑)

そして慰めてくれたのも患者さんで、外で怒られているのを聞いた患者さんが「頑張ってね、いつも来てくれて元気をもらっているのよ」と言って私の手に飴玉を握らせ、カーテンの中で涙を拭いてくれたおばあちゃん。

1年目はとにかく夢を抱いていた看護師の現実を突きつけられ、もうやめたいと何百回も思いました。

そして終末期の患者さんも多く、病態が急変することもよくあったので

さっきまで一緒に笑って話ていた患者さんが急変して亡くなるってこともありました。

人はこんなにあっけなく死ぬんだ

と実感し、同時に無力さを感じたことを今も鮮明に覚えています。

病棟で働いている看護師さんたちは日々いろんな感情が入り乱れる医療現場で

患者さんにはニコニコ対応し、本当に強い人たちで、尊敬しかありません。

当時の私はそこまで強くいられたかどうかわかりませんが、メンタルのコントロールは身についたと思います。

大学病院で学んだこと

大学病院での看護は、採血やドクターの介助をすることではなく(もちろん多少はやった)

看護師として患者さんの全体像をアセスメントし、そこに必要な介入を行なっていくというものでした。

抗がん剤の骨髄抑制時にはどんな症状が出て、患者さんの日常生活では何に気をつけないといけなくて、何を患者さんに指導しないといけなくて、どの様に指導をすれば患者さんの行動変化が起こせるのか

看護師の基本である【看護師の立場で患者さんへどう介入するべきか】を学んだと思います。

3年間大学病院に勤務し、当時24歳。

とにかく色々なことを経験した私は看護師という仕事が嫌いになりそうなくらい疲れ切っていたと思います。

大学病院での看護師の仕事に疲れた私は、当時付き合っていた彼の転勤を機に大学病院を退職。

その後クリニック勤務にシフトしていくのです

クリニック時代

結婚する予定だった彼と引っ越し後2ヶ月で別れ、絶望

当時大学病院を退職したのは、「結婚」することで逃げたかったんだと思います。

当時の私は、大学病院を3月に退職して

彼と引っ越し。1ヶ月ほど何もしないでゆっくり過ごしたのちに

そろそろ働きたいなと思い新たな就職先を探し始めました。

結婚する予定だったので、病棟勤務に戻るつもりもなくクリニックを探し始めました。

元々美容に興味があったので、若いうちに!と当時思って【一般皮膚科がメインで美容皮膚科を少しやり始めた】クリニックへ面接を受けに行きました。

無事に就職が決まり、働き始めることに。

そしてまずここでクリニックの洗礼を受けることになるのです。

病棟しか経験のなかった私は、クリニックでの看護師の役割を理解していなかったのです。

当時は接遇なんて全く身についておらず、きちんとした敬語すら使えなかったです。

そこで「自分マジで使えない」ことに気がつきました。

そして入職当時、まだクリニックは開業5年目ほど

保険患者数は100人前後

美容皮膚科の患者はニキビ治療でエステさんがやる施術で10名ほど

スタッフは看護師常勤1人+パート2人

その他エステスタッフ6名と受付さん数名

そんな感じでした。でも、まあ結婚する予定だしゆったり働ければいいか

くらいに思っていました。

ですが

入職して2ヶ月後、同棲していた彼と別れることになり

絶望(笑)

ちょっと待って、どうしよう

まだ入職して2ヶ月で辞めるなんて失礼極まりないし

でも、このままこんなゆったりと働く環境のままでは今後のキャリアがまずい

どうしよう。

そして当時の院長に話に行きました。

「院長は、今後クリニックをどの様にしていきたい目標とかありますか」と。

返ってきた返答は、

⚫︎保険の患者数を150−200人/日をベースにしたい
⚫︎週に1.5日 OPE日を作り、患者を埋めたい
⚫︎美容皮膚科の看護師施術の売り上げを月200万以上にしたい
⚫︎美容皮膚科の全体の売り上げを月300万以上にしたい

ざっとこんな返答だったと思います。

そして私は決心したのです

1年間必死にやって、結果が出せなかったら辞めようと。

そして、院長にこの目標を達成できたら給与を上げてほしいと交渉しました。

そこから私の1番最初のクリニック奮闘記が始まりました。

目標を掲げて1年後

結果から言うと目標は全て達成し、当時30万円からスタートした給与は55万まで増えました。

ですが、目標を達成するために犠牲にしたものももちろんあります。

⚫︎自分の時間
マジで全ての時間を仕事に注いでいたと思います。週6は確実に働いていましたし、休みの日は美容皮膚科の症例データを集めるためモデルになってくれる人を探し、出勤して施術をして写真を撮る。もちろん無給。というのを6ヶ月間やり続け、データが集まってきたらそれをカウンセリングでしようできるように症例集を自分で作成しました。そして、レーザーのセミナーなどにも休日を使って行きまくり、院長よりも知識だけは持っている状態まで仕上げました。
そして自腹で他の流行っている美容皮膚科へ行き、カウンセリングの話し方や接遇を実際に体験して盗むために何件も何件も回って施術を受けました。
そしてそれ以外にも人の欲求の定義や、行動変化を起こすときの条件などとにかく勉強しました。カウンセリングでどんな質問や悩みが来ても返答できる様にクリニックでやっている施術の全てを頭に入れ、カウンセリングの効果的な話の仕方(話し方の順序)なども徹底的に勉強し、誰もいない横に向かってひたすら何度も何度も会話の練習をしました。
きちんとした敬語が使えなかった私は、まず敬語の勉強をして様々な人の会話に耳を傾けそれをそっくりそのまま自分の中に落とし込むという作業をひたすらやりました。
デパートや、美容外科、ホテル、高級レストラン、お金を落とす人が行く場所に足を運びその人たちがどのような対応を求めているのかを学びに行きました。

⚫︎スタッフとワイワイ仲良く仕事をするという環境
当時のスタッフには相当嫌われていたと思います。看護師は総入れ替えをして自分で面接をしたのでそうでもなかったと思いますが(いや、普通に嫌われていたかも笑)、エステスタッフには確実に嫌われていました。
それまではとてものんびり仕事ができていたのに、患者数は増えて美容施術も増え、スタッフからしたら楽してお給料がもらえていたのに、仕事が増えたのでめちゃくちゃ嫌われていたと思います。
そしてお決まりの「どうせ院長と寝てる」と言われていたのも知っています。
でも別にどうでもよくて、あぁそう言われるってことは成功した証拠だなくらいに思っていました。女の嫉妬はわかりやすい。
でも、私の仕事は院長の期待に応えることだったので、自分のボスは院長であってスタッフの機嫌をとるために働いていたわけではなかったし、明確な目標があったので別にどうでも良かったです。(当時はめちゃくちゃ尖っていたと思います)

そして美容カウンセリングへ来た患者のほとんどを自分に回してもらい、毎日毎日カウンセリングと施術を繰り返しました。
うまくいく時もあれば、全然うまくいかない時ももちろんあり、うまくいかなかった時はどこがいけなかったのかの振り返りを徹底。患者さんにそもそも施術を受ける気がなかったのかもしくは私の説明がうまくいかなかったのか、、、

同時に保険診療の看護師の体制も改善。院長の補佐を徹底すること、院長が説明しきれなかったことを必ずフォローに入り説明をすること、継続して通院が必要な症状の場合はなぜ通院が必要なのかしっかりと今後を見据えて説明をすることを看護師のなかで徹底しました

そんなことを毎日繰り返しながら1年が経過した時、目標に掲げていたこと全てを達成することができ院長とハイタッチをしたことを覚えています。

気がつけば平日も200人の外来が基本になり、看護師も常勤が5人に増えました。

その後、当法人は分院を2院立て続けに出し全体の総統括を任せてもらうこととなりました。

当時の院長には本当に感謝しかありません。何もできなかった私にクリニックの看護師として成長するチャンスを与えてくれたこと、

きっと他のスタッフからいろんな反感をかっていたと思います。

それでも私に好きにやらせてくれた院長には本当に頭が上がりません。

そして、ここでの経験が確実に今の歯科の運営に活きていることは間違いありません。

あの経験がなかったら、私は今夫を支え、クリニック経営を安定させることはできていなかったかもしれません。

そして勤務して3年後、完全な美容外科で働くために転職することに決めました。

美容外科での3年間

美容皮膚科でスキン治療について学びを極めた私は、外科治療も学びたいと思っていました。

そんな時、美容外科界でとても有名な女医さんに「うちで働かない?」と奇跡的に声をかけてもらい

美容外科で働くことを決めました。

美容外科での仕事は、毎日とても刺激的で

特に先生のOPE介助をするのが大好きでした。

患者さんに対してとても丁寧に接する先生だったので、

患者さんは殆どがリピーター

先生を信頼して美の維持を任せている患者さんがほとんどでした。

ここではカウンセリングなどを自らすることはありませんでしたが、毎日先生の姿勢を見ることで「患者さんと信頼関係を築く」ことの大切さを実感し

クリニック経営は新規を取り続けるのではなく、リピーターの獲得に尽力すべきだと気づかされたのです。

そしてこの間に1回目の結婚

しかし、正確の不一致で2年程で離婚(めちゃくちゃはしょる。笑)

離婚直後に今の主人と出会い、私の人生は医科から歯科へシフトしていきます。

そしてそれを機にWebマーケターも極めることとなるのす。

夫との出会い そして結婚

夫との出会は今はお馴染みの「マッチングアプリ」でした。

当時離婚したばかりの私はもうすぐ30歳。

婚活しないと、、、と思い始めてマッチングアプリなるものを登録してみたのです

そしてマッチングして何人かやり取りをしていましたが、1ヶ月ほど経ったときに

初めて会ったのが今の夫でした。

そして夫の猛アタックの末

出会って6ヶ月ほどで「結婚しよう!」と言われ

「いやいやいや、アホか。私ついこないだ離婚したばかりやねん。親に言ったらひっくり返るわ笑」

と、全力で否定。笑

「今結婚しようが、2年後に結婚しようが、何か変わるの?」と夫に言われ

「あ、、、まあね。。」

そして気がついたら再婚してました。

その後すぐに娘を授かり、私たちは歯科クリニックを一緒に経営していくこととなったのです。

始めは看護師を辞めるつもりもありませんでしたし、妻がクリニックに入るのはタブーとよく言われていたので、一緒に働く気はありませんでした。

たまたまスタッフの欠員があり、短期間だけお手伝いくらいに思って入ったのがスタートでした。

気がつけばあれから約5年が経ち、今では夫が仕事でも最高のパートナーとなり

どちらが欠けてもクリニックは成り立ちません。

それまでずっと1人で戦っていた夫を本当に尊敬しましたし、私が背中を守らないといけないと思いました。

そこから歯科で、自分ができること

自分だからできること

2人だからできること

そして自分ができるようにならなければいけないこと

それをコツコツやり続けた結果

今では本当に安定したクリニック経営ができています。

そして夫のおかげで私は今、他の歯科・医科のクリニックの先生に

Webマーケティングという形でお仕事の依頼をいただけています。

そして医療とは別の分野でも仕事ができていることに感謝です!

自分たちと同じことで悩み、同じことで躓いている先生たちと

一緒に悩みを解決すべくコンサルさせていただけることがとにかく嬉しいです。

そして、歯科・医科ともに知識を持っている自分だからこそできる仕事があると思っています。

 

 

長い長いプロフィールを読んでいただきありがとうございます!